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大学生

「低学歴の世界」という価値観

夢枕獏の「陰陽師」や、「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」には、しばしばしゅという考え方が出てくる。

物事は、名付けることによってはじめて存在できる。神も、鬼も、人も、自然も、世界も、名付けることではじめてその姿を認められる。呪とは、そういう概念のことをいう。

たとえば、Twitterを熱心にやる人をツイッタラーと名付ける、趣味に熱中している人々をオタクと呼ぶ、これも一種の呪である。

 

何が言いたいのかというと、どんな概念でも名付けられることで初めてその姿を世界に顕現するのだ。

僕が最近感じていたことを、部分的にではあるが、的確に言い表した言葉の話をしたい。「低学歴の世界」という言葉について、話そうと思う。

 

高校まで、僕は小中高一貫校に通っていた。小学校1年生で入学して、高校を卒業するまで、同じ学校にずっと通っていた。中学、高校で受験して入ってくる人たちもいるので、クラスメイトの2割程度が、小学校来の知り合いであった。そして、自分たちが進学校の生徒であるというプライドを、多かれ少なかれ持っていた。

このような環境の彼らには、共通した特徴があった。

  • 家に金がある。祖父母からの援助も手厚い。私立の学校に通っているのだからそれはむしろ必要条件だろう。親が医者の家庭も多く、その子供はみんな医学部へ行く。
  • 習い事の経験がある。ピアノ、水泳、そろばん、スポーツチーム、多種多様な習い事を多少は経験しており、どんな趣味でもある程度の素養がある。
  • 高3になると、とりあえず東大志望。学年の7割は、東大、京大、一橋、東工大、国公立医学部のどれかを志望する。残り2割は早慶。MARCHに行きたいと思っている人は、冗談抜きに一人もいない。
  • 面白ければそれでいい、という考え方。何かの価値判断、優先順位の基準になるのは、「面白いかどうか」である。ここでいう面白いという言葉は、「誰もやらなそう」「知的好奇心を刺激される」「笑いをとれる」という条件を満たすものが当てはまる。

さて、このような価値基準は、おそらく進学校出身の人なら一定の共感をしてくれるだろう。その価値基準のまま、彼らは大学へ行くのである。その進学先によって、次のような反応が起こる。

  • Aランク(東京一工、七帝大、医学部)に進むと、同じような出自の人たちが多く、すぐに仲良くなる。同じような趣味の人も見つけやすい。ただし、自分より遥かに頭のいい人たちが大量にいることを目の当たりにする。
  • Bランク(早慶)に進むと、さらに上のエリート層の存在を知る。すなわち、何の苦労もせずに内部進学で早慶に来る層。生まれた時から勝ち組、という本物を知る。
  • Cランク(上理、GMARCH、中堅国公立)に進むと、周りの人間のつまらなさに絶望する。話は合わないし、冗談はつまらなく、人間的に面白いと思えるような人があまりいない。

そして、僕は3番目、いわゆるCランクの大学に進んだ層である。人間的につまらない人しかいない、というのは実感である。しかし、このランクの大学に来たことで、分かったことがあるのだ。

それが、「非進学校の世界」である。

大学で、いろんな人と話して、驚いたことがあった。彼らは、自分たちの高校ではトップ層にいたのだ。つまり、高校のトップが、Cランク大学にしか受からないのである。

これは、本当にカルチャーショックだった。自分たちにとって、滑り止めでしかないようなCランク大学に、頑張って入った層を目の当たりにしたのだ。

しかし、この認識ですら甘かったことに気づかされたのは、塾講師のバイトを始めてからだ。そこは、街の個人経営塾で、近所の中高生が通う塾だった。

第一志望が日大の受験生がいた。分数の計算を間違える中3がいた。ローマ字の読めない中1がいた。問題集を使った勉強が全くできない高校生が大量にいた。

このとき、僕はようやく自分の足元の何十万人という存在に気づいた。日本のセンター試験受験者数は50万人。同学年は100万人。MARCH以上の大学に受かるのは、学年でたったの上位10%程度である。のこりのセンター受験者約40万人が、初めて可視化された瞬間だった。

【保存版】同世代における高学歴の割合は◯% | Drinavi.com

実際の数字は、この記事に詳しい。

 

大学に入って、僕は初めて「非進学校の世界」を目の当たりにした。そして、大学の友人からこんな話を聞くようになる。

「小学校の友達で結婚した奴がいる」

「中学のクラスメイトの女子に子供がいるのを同窓会で知った」

「同級生はほぼ大学に行っていない」

 

僕は、うすうす感じていたのだ。大雑把な計算で、同学年100万人のうち、「進学校の世界」に10万。「非進学校の世界」に40万。

なあ、あとの50万人は、どこにいるんだ?

 

大学に入って、自分が今まで関わってこなかった層があるということを知った。Aランク大学に行っていたら、ずっと不可視のままである層である。そして、自分にも、いまだ不可視の層があると、うすうす感じていた。

最近読んだとある記事によって、残り50万人の層の実態を知った。そして、その記事の中にあった表現で、その感覚に呪がかけられた。その概念には、「世界」という名前がついた。

 

「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由(阿部 幸大) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

https://anond.hatelabo.jp/20130809115823

高学歴の世界からみた低学歴 - とある京大生の

 

今までずっと仲良くしてきた、高学歴の同級生。大手に就職し、エリートが約束されている、旧友たち。

大学に入るまで見えなかった、MARCHを第一志望にする高校生。自分一人では問題集も満足に進められない、バイト先の生徒たち。

友人が話す、大学に行っていない小中の同級生たち。センター試験を受けない、いまだ不可視の、50万人の同学年。

 

自分が今まで見えなかったもの、まだ見えないもの、そういった層そのものが、「世界」と表現された。

進学校の世界」にいる、「生まれた時から勝ち」層や、この記事にあるような、「低学歴の世界」にいる、「文化格差に自覚的」な層などと、細かく世界を分類すればキリがない。だから、僕が定義する世界は、大学に入る前に見えていた世界、入ってから見えた世界、そして見えていないと分かった世界の3つだ。とりあえずは。

 

進学校の世界」、「非進学校の世界」、「低学歴の世界」——僕にいま認知できる世界はこの3つで、最後の世界はいまだ見えない。